改易
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映画『元禄忠臣蔵』の場面。史実において松の廊下では、浅野長矩吉良義央に、水野忠恒毛利師就に、斬り掛かるという刃傷沙汰が起こっている。何れも大名が改易となった大事件であった。

改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰[1]士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある[2][3][4]。また大名の所領を没収、減封転封することを改易と呼ぶこともある。
概論

江戸時代中期の国学者谷川士清が表した『和訓栞』によれば、改易とは戸籍を取り上げることを意味していて(古代中国の律法より生まれた)賊盗律移郷から発展したものであるとされ、平安時代の『続日本後紀』では改易は別の意味で使われており、後年出来た言葉だという[5]

改易は「職を改め易(か)える」の意であり、もとは律令制度において現職者の任を解いて新任者を補任するという職務の交代・改補(かいふ)を意味していた[3][6]。職務の交代は概ね不利益を伴うため、中世以降はこの言葉に懲罰的な意味合いが含まれるようになって「所領や所職(しょしき)を没収する」という一種の刑罰をさしたが[7]、原義の職務の交代(変更)の意味も残っていたので、鎌倉時代から室町時代においては守護地頭職の変更と所領の没収の両方が改易といわれた[注釈 1]。財産を没収する闕所は、改易と似た刑罰だが、鎌倉幕府から室町幕府の初期には御家人に対する刑罰だったが、江戸時代(近世)では士分以外のものに対する刑罰のことをさした[8][9]

近代以降は大名の領地没収や処罰的な転封を改易と呼ぶことが多いが、同時代史料において大名に対して改易の語が用いられることは極めて稀であり、「領地召上」などの語が使用された[1][10]。近世初期には大名を中心に「改易」の語が用いられ、中期以降は旗本御家人が中心となって使用される傾向にある[10]藤田恒春は本来の改易は減転封等とは異なる概念であり、峻別する必要があるのではないかとしている[10]
幕臣の改易

江戸時代の法制において「改易」の語が初めて用いられるのは元和8年(1622年)2月15日の「付番士当直勤務令」である[11]。『諸例類纂』においては「改易」は「改易者住居御構等ハ無之、御暇被下、平民二相成迄、此名目者當主井嫡子二限り候事」とあり、士分の所領・家禄・屋敷の没収の意味とされた[12]。士籍の剥奪は長期だが、一定期間で許されることも多かった[12]。これに対して遠島や流刑となった場合には許されることは稀であった[12]。『諸例類纂』においては改易の対象は当主と嫡子に限定適用されるとされているが[5]、実際には庶子に対しても改易が行われることは多かった[13]。改易は蟄居より重く、追放刑遠島切腹より軽い[14][15]

断家譜』にある75件の改易事例のうち、最も多いのは不行跡であり、続いて連座や偽証などがある[16]。また75件の事例のうち、10件についてはその後赦免されている[17]。浪江健雄は武士として品性・廉恥に欠けたものや怠惰なものについて改易刑が適用される傾向にあるとしている[17]。一 改易は、住所御構等は無レ構 御暇被レ下 平民に相成まで、此名目は当主竝に嫡子に限り候事 ? 『大百科事典 第2巻 (ウツーカク)』[5]

また『御定書百箇条』には運用について書かれており、その末尾に以下のようにある。百三 御仕置仕形之事
   ……中略……

(従二前々之例一)
一 改易   大小渡、宿え相帰し、夫より為二立退一申候   但家屋敷取上、家財無レ構 ? 『江戸の刑法 : 御定書百箇条』[18]

「大小渡」は、武士たる身分を剥奪するの意味で、大小の刀を取り上げて抵抗できないようにした上で、上使は被改易者と一緒に帰宅して、当人の口から家族に立ち退きを伝えさせて家屋敷を没収するが、(家族が)家財を持ち出すことは構わないとされていた。法文は簡素であるが、施行によって生ずる結果はすこぶる重大だった[5]。堪忍料を与えられることが多い大名とは違い、一般の武士は、生活の糧を失い、住宅まで失うので、親族のもとに身を寄せるしかなく、突然貧窮した苦しい生活を強いられることになった。
大名の改易『東海道五十三次之内船橋掛渡行列之図』(豊原国周


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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